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会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語

会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語

 いただいた本。
ちょっと前に読み終えていたけれど、感想をまとめる気力がなかなかなくて、ようやく。

 簿記2級の勉強をしていて、テキストの説明が足りないな……と思うことが多く、ググってはなぜそうなるかを自力で考えて辻褄を合わせる……というのをよくやってた。そうやって合わせた辻褄が、「歴史」という軸で整理されていってかなりスッキリ。会計帳簿をつけることだって技術である以上、「これがこうなっていたらいいなぁ」に沿って発展してきたわけで。「〇〇のためにこうしているんだ」がわかったほうが応用がきく、ということで読んでよかった本。
 あと、10代のころよく「(将来)働きたくないなぁ」と思っていて、あのころの自分が漠然と何を嫌がっていたのかようやく整理できたのが収穫。

 高1の冬休みにバイトをして、大人に囲まれて何かしら仕事をしてお金を得てみて、そして虚しくなって。頑張っていい大学を目指して入って卒業して、その先にあるのがこれか……と。けど、「これ」がなんなのか、うまく説明できずもどかしかった。
 「世の中にはいろんな仕事があるよ」とか「バイトには絶対やらせない仕事ってのもあるよ」とか、いろいろ言われそうなことがあるけど、「じゃなくて!」ってなるのが目に見えていて。3学期に学校に行くのが嫌になるほどヘコんだ。

 今の自分なりに表現すると、あのころの私は、「「社会に出る」って大層なことのように言うけど、消費者という経済の末端にいるという意味では労働者(大多数の大人)も学生(子供)も大差ないんじゃない?」と感じたらしい。
 当期純利益からは労働者に対する賃金は排除済みで、そうして残った当期純利益が資本に組み込まれて。会社の価値とはつまり資本と資産と負債(と株価)だ。
 これらには未来がある。次のサイクルの中で負債を減らしたり、資産を増やしたり。資本を増やして新しいことを試したりもできるだろう。労働者は刹那的に労働力を提供し、対価を受けとり、消費するばかりで、そこに次はなく、未来はない。いくらそんな日々を繰り返しても、会社の経営に対する影響力は生じない。

 私が学生の頃にはすでに、社会は政治(行政)によってではなく企業によって動かされていたように思う。そして、企業に影響力を持つのは、株主(オーナー)や取引をしている会社、などであって、労働者ではない。ならば、そんな社会で労働者であるということは、自分の生活において重要なことがらを決める権限をまるで持っていないということになるのでは?(だから労働者は子供に等しい)

 自分がまるで社会に関与できていない(これからも関与できないであろう)悔しさと、関与できていないということに気づいてもいない人たちに囲まれるさみしさ。

 関与できる人間であろうともがく日々の中で、そんな気持ちを懐かしく思う。

 

読みたい本、読み終えた本

 最近見つけた気になる本。

 じゃんっ。
 

 『社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門 』

 何が気になったかって、
 「社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための○○」←わかる。
 「柳田國男入門」←わかる。
 「社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門 」←?、?、?。

 確かに柳田國男民俗学者だし、「日本にとっての社会」というものを考えていくために参照するにたる論考はたくさんあるって想像がつく。でも、こういうふうに言われると、ものすごく落ちるカーブボールをバッターボックスで見てしまった気分。
 「社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための」、──からの「柳田國男入門 」。……この「グインッ」っ感がたまらない。「柳田國男を読む 日本に社会はあったのか」みたいなタイトルだったら絶対、スルーしてる。情報を出す順番をひっくり返しただけでここまで意表をつく感じになるか! また、しれっと「この国は社会を作れなかった」という印象を刷り込んでくるあたりもうまい。
 短歌、俳句に使えそう。


 そして、読み終えたほうの本がこれだっ!

 

エントロピーからはじめる熱力学 (放送大学教材)

エントロピーからはじめる熱力学 (放送大学教材)

 『エントロピーからはじめる熱力学』

 放送大学のテキスト。タイトルに違わず、「エントロピー」をはじまりの地点とし、とりあえずエントロピーというものがあるというところから熱力学をはじめてみようじゃぁないか、という本。
 そして最後までエントロピーそのものは直接的に説明はされない。
 謎の物理量Sにまつわる群像劇──!
 ……という感じ。

 イメージはできるし言ってることもわかるけど、問題が解けない、という私みたいなタイプには式をとりあえず操作してみようという視点が嬉しい。(このイメージをいじったらこういうイメージにたどりついた! っていうのは自分で考えればいいから)
 率直な物言いも多く、「覚えたほうがいい式はこれとこれとこれだけだっ!(式操作を実際に手元で試して来たんだから、他のは式操作で全部導出できるはずだよ、君なら。(圧、圧、圧、P、P、P))」やら「講義で定義を延々説明してから先に進んでみたこともあったが、理解度は伸びなかった」やら。実験台にされた学生さんかわいそうwww。
 そのかいあってか、これなら自分でもわかるできるやってみようと思えた。来期履修科目数が多くて重くて不安だったけど、1冊目(1科目目)でこのテキスト読めてラッキー。やー、面白かった。

通時的占い、共時的占い

 知り合いに、占いを趣味としている人がいる。話の流れから占ってもらったことがあるけど、なんとなくピンとこなかった。こないだ、その人に占ってもらった共通の知り合いと、その占いの話に。
 「あの占い、当たりました?」と聞かれてしばらく、意味がわからなかった。お互い会話が上手じゃないこともあってか、しばらく もごもごとやりとりして、折り合いがつく。
 どうも、その人と私はけっこー歳がはなれていて、同じ人に同じ形式で占ってもらったにも関わらず、私は未来に関する話が多い(から、当たるかどうかはこれからわかる)と思ったのに対して、その人には過去に関する話が多い(から、「あのころ確かにああいうことがあったわぁー」となる)と思えたらしい。
 占いだから当たる当たらないという部分にばかり意識が向くけど、どうも、全体の大まかな流れについての情報が与えられたときに現在ポイントから過去に対して意識が向く立場年齢と、未来に対して意識が向く立場年齢があるみたい。
 ただ、占いにせよ、スケジュール設定にせよ、それは事実そのものではないということは確かだと覚えておかなきゃなぁ、という。結局のところ自分の人生が残り何年か確実に知っているのは自殺することを決めた人だけだ。(自殺にさえ常に失敗する可能性が含まれているから、実質、未来は不定
 50歳の人でも80歳まで生きる人と120歳まで生きる人とでは考えるべき「これから」の長さは違う。50年後に先送りしたつもりが、50年後の自分に先送りしてたりしかねない。
 生まれた頃が同じな人より、死ぬ頃が同じな人とのディスカッションのほうが有意義なのかも。(それができるのなら)